| 初代直義代(寛永15〜) | 中館金右衛門義久「寛永15年出役〜慶安2年没(1638〜1649)」中館忠右衛門吉寅「承応2年(1653)出役」・中館甚右衛門成久「寛文7年出役〜寛文12年没(1667〜1672)」・福田甚五兵衛与形「明暦3年父蔵人に代わり出役、同年蔵人病死につき寛文12年9月本役として出仕。(1660・1672)・中館勘兵衛常満「万治4年(1661)19歳にて出役」・広田太郎左衛門門直「承応3年(1654)仮出役、承応4年本役、寛文13年没」 |
| 2代義長代 (延宝3年〜元禄元年) (1675〜1688) |
福田甚五兵衛与形「前代より出役」・中館忠右衛門吉寅「前代より出役、貞享4年(1687)没」・中館勘兵衛常満「前代より出役」・新田小十郎長政「貞享2年出役」 |
| 3代義諭代 (元禄元年〜元禄12年) (1688〜1700) |
福田甚五兵衛与形・中舘勘兵衛常満・新田小十郎長政(いずれも前代より引き続き出役)・中館忠衛門常久(就任との記録なし、推測) |
| 4代利戡代 (元禄12年〜正徳2年) (1700〜1712) |
福田甚五兵衛与形「前代から出役、元禄12年没」・中館勘兵衛常満「前代から出役、元禄13年没」・是川宇右衛門景雄「宝永2年出役(1705)」・福田甚五兵衛与充「宝永2年出役」・中館忠右衛門常久「宝永2年11月無調法によりお役御免」・沢里源右衛門「元禄14年出役、宝永3年お役御免」・中館十兵衛「宝永7年出役」・新田小十郎長政「前代より出役、宝永6年隠居」・福田作兵衛嘉悦「宝永7年出役」 |
| 第22代(遠野初代)八戸直義代「寛永4年〜延宝3年(1627〜1675)」 |
| 工藤勘解由村吉(長門)・中館民部小輔義則・岡前宮内三蔵・松崎大学(比巻沢) 福田蔵人(寛永11年11月12日出役) |
| 中館民部義則 | 寛永4年7月11日病死、八戸以来の一門 |
| 岡前 宮内 | 寛永11年11月、岡前騒動にて切腹、家名断絶。 八戸以来の譜代の家柄、遠野においては軍事全般に関る武門の家柄であった。 |
| 松崎 大学 | 比巻沢市兵衛・秋田浪人とされ、清心尼時代に八戸にて召抱えられ、遠野においては民政に関り百姓支配。 正保2年(1645)病死。 |
| 福田 蔵人 | 福田氏の系譜については不明ながら、諸説では新田氏一族とされるが、安芸浪人といわれ、南部藩主、南部利直配下であったものを八戸直義が貰い受け、新田義実の妹を室とし新田一族となったとされる。 岡前氏、松崎氏が相次いで家名断絶となり福田氏が遠野民政を支配し、盛岡遠野屋敷在の家老も勤めた家柄であった。 |
| 5代信有代 (正徳2年〜享保20年) (1712〜1735) |
新田小十郎政央「享保2年出役、享保12年没、30歳」・福田小左衛門真武「享保8年出役」・中館勘兵衛「享保9年出役」・福田甚五兵衛与珍「享保18年見習い出役、同年末本役」・新田小十郎義編「享保18年(1733)出役、父政央病没につき出役、15、6歳とみられる」・新田茂左衛門喜政「享保20年出役、新田家分家小新田氏」・是川宇右衛門景雄「前代より出役、享保20年お役取り上げの上、50石ト利上げ」・沢里源右衛門治共「享保20年出役」 |
| 6代信彦代 (享保20年〜延享2年) (1735〜1745) |
中館勘兵士衛・沢里源右衛門・福田甚五兵衛与珍・新田茂左衛門喜政「前代から出役」・中館勘兵衛(子息)「元文2年(1737)見習い出役」 |
| 7代義顔代 (延享2年〜天明5年) (1745〜1785) |
中館十兵衛政煕「宝暦2年(1752)出役、宝暦10年お役御免」・中館勘兵衛照澄「宝暦7年出役、宝暦11年没」・新田小十郎経忠「宝暦10年出役、小十郎義編弟」・新田茂左衛門喜政「前代から出役、宝暦13年没」・工藤直右衛門重英「宝暦13年出役、天明6年お役御免」・福田甚五兵衛与錦「明和7年(1770)出役、安永3年没」・是川宇右衛門秀乗「安永2年(1773)出役、同3年病没」・新田茂左衛門長康「安永6年出役、茂左衛門喜政の嫡子」・中館与四郎儀峰「安永3年出役」・ |
| 8代怡顔代 (天明5年〜文化14年) (1785〜1817) |
福田甚五兵衛与錦・新田茂左衛門長康(判左衛門)・中館与四郎儀峰(前代より出役)・工藤紀内「天明6年出役、寛政13年(1801)お役御免」・中館勘兵衛儀明「寛政8年出役、無役加判」・福田作兵衛与庸「寛政9年出役、享和2年(1802)病没」・新田正左衛門政文「寛政11年出役」・沢里弥右衛門顔実「享和2年出役」・福田平八郎与珍「文化4年(1807)出役」・工藤直右衛門広総「文化2年出役」・新田小十郎政辰「文化5年見習い、翌6年本役」・工藤直記「文化7年見習い、文化9年本役出役」・新田茂左衛門政祥「文化8年出役」 |
| 9代義尭代 (文化14年〜天保元年) (1817〜1830) |
中館勘兵衛儀明・新田正左衛門政文・福田平八郎与珍・工藤直右衛門広総・新田小十郎政辰・新田茂左衛門政祥・工藤直記「前代より引き続き出役」・沢里良之進治寅「文化14年出役」・工藤直右衛門広総「文化15年休養」・新田正左衛門政文「文政2年(1819)お役取り上げ」・福田平八郎与珍「文政2年お役取り上げ百石取り上げ」・新田庄左衛門政寅「文政4年出役」・新田茂左衛門政祥「文政4年没48歳」・新田貢長辰「文政5年出役、翌6年小十郎襲名」・新田小十郎政辰「文政6年没42歳」・沢里良之進治寅「文政6年お役御免」・工藤衛門太「文政8年出役」・中館宮門義良「文政8年見習い出役」 |
| 10代義茂代 (天保元年〜天保8年) (1830〜1837) |
新田小十郎長辰・中館宮門義良・沢里佐司馬治康・福田諸領・工藤衛門太・(沢里佐司馬、福田諸領、任命記録なし)「前代より引き続き出役」・ |
| 11代義普代 (弘化5年済賢と改む・) 南部弥六郎済賢 (天保8年〜明治2年)1837〜1869 |
新田小十郎長辰・中館宮門義良・福田諸領・沢里佐司馬治康「前代から引き続き出役」・沢里右膳・中館数馬伊織「出役するも任命記録なし」 |
| 新 田 氏 |
| 附馬牛八戸氏 |
| 新田氏 | ||
| 八戸地方では、新田氏を(にいだ)と発音しているが、おそらく遠野移封当時も「にいだ」と呼んでいたものと思われます。ただし、遠野では新田姓に関しては「にった」と発音しており、明治の新姓当初には「にった」と呼んでいたものと推測されます。本来は「にいだ」と呼ぶべきところですが、あえて「にった」で通させていただきます。 新田氏は、南北朝期の人、南部政長の次男政持が祖と伝えられ、八戸氏分家の立場で、代々八戸家では重きを成す家柄で、主家である八戸家に後継が無きときは、新田氏から養子を迎え、相続させることになっていたといわれております。八戸氏18代政栄、22代直義は新田氏の出でもあることからもわかります。 新田氏は八戸時代、八戸の新田(新井田)舘にあって、主家である八戸氏と相呼応してその勢威を保ち、遠野に移封してからは、鍋倉城二ノ丸にあって、遠野の民政を支配、さらに遠野城代、家老加判役の首座として遠野治世に重きを成し、代々小十郎を名乗り、遠野第一の家と内外に認められていた。 また、新田本家に家老加判役となる適格者がいない場合は、その分家である小新田氏「判左衛門家、正左衛門家」が代わって家老加判役を勤めることになっていたといわれます。 遠野移封当初は、遠野領内の知行地は主家の八戸氏から与えられた内容ではなく、南部藩主、三戸(盛岡)南部家の南部利直より拝領したもので、当初は伊達家(仙台藩)境を中心に知行地が割り当てられていた。(藩境の警備の任) 後に遠野領主八戸直義の弟、新田家当主、新田義実が他界すると主家遠野八戸家に家禄2千石の内1千5百石を没収され、5百石となるも、それでも遠野一の大身ではあった。 家禄1千5百石減封に関しては、新田氏出の八戸氏当主、直義は本家後継の際に実家である新田氏から有力家臣を伴い、後の時代、新田義実亡き後もさらに家臣団の吸収を実行、その裏には当主亡き後の新田氏の内部抗争があったと推測され、この機に突出した新田氏の勢力を抑制して主家の基盤強化を図ったものと思われます。 「遠野市史3、外」 |
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| 附馬牛八戸家 |
| 延宝4年(1676)2月、遠野2代八戸義長は父である直義の遺言に従って、弟の義也を分家として南部藩主、南部重信に上申して、2千石を与えた。 「遠野附馬牛村671石7斗8升5合・遠野東禅寺村438石9斗9升・岩手郡平舘村889石2斗2升5合・・・合計2千石」 遠野八戸家分家である八戸頼母義也は附馬牛に住まいし附馬牛八戸殿と称された。 (遠野、女鹿(二戸郡)、奥友、巻堀(玉山)、平舘(岩手郡))2千石 附馬牛八戸家当主、初代義也は25歳の若さにて急逝、その子の竹之助も後を追うように僅か3歳で死去、附馬牛八戸家は断絶の憂き目に遭うところ、主家八戸義長の室(北氏の娘・北九兵衛)の弟、伝之助を養子として相続させる。この際に1千石減封。 その後、盛岡藩高知に名を連ね盛岡藩家老加判役の任を勤める。 主な家臣団 中館氏4家・末崎家2家・野崎氏2家・小笠原氏・橘氏・十日市氏・千田氏・長岡氏 分家当初家士 御家老・中館覚右衛門・中津山太右衛門 諸士 ・類家掃部之丞・大里与惣左衛門・坂本兵右衛門・小笠原勘右衛門・及川源兵衛・ 小笠原武右衛門・松橋諸左衛門・大橋勘之丞・佐郷谷与左衛門 野沢覚之丞・松崎茂右衛門・小笠原次郎兵衛・四戸源次郎・水越喜兵衛 「遠野市史2、外」 |