| 津軽での情況を南部政長は、南奥白河の結城親朝を介して常陸の北畠親房に伝えております。この結城親朝は南奥州南朝方の旗頭だったことが伺われます。 北奥羽では南朝方攻勢が行われたが、多賀府中等の中奥では、作戦が展開されず中奥の雄、葛西清貞はしかるべき宮方大将の下向を要請している。この大将とは北畠親房を指すとの見解もありますが、実戦向きの武将、すなわち結城親朝(宗広の後継)だったとされている。しかし、結城氏は動こうとしなかったといわれ、興国元年(1340)ようやく北畠顕信が下向、常陸を経由して奥州入りしている。 北畠顕信の奥州入り 通説では、白河の結城親朝のところから石川郡、宇津峰城に入り北から府中奪還の軍を発動し栗原郡方面を北上し「三迫合戦」に及んだといわれている。しかし、府中など中奥は石塔義房、留守氏、国分氏が勢力を持ち北朝の勢力下だったことが史料でも明らかになっている。こうした情勢下の中、容易に北上は出来た可能性は低くいとされている。 顕信は、海路石巻へ上陸、葛西氏の日和山城に入った説が有力といわれている。 南部政長の南下 北畠顕信が石巻に入ると北奥羽の南部政長から朗報が伝えられる、津軽に攻め入って安藤一族を南朝に誘う工作が成功、また鹿角郡を経て岩手郡西根へ南下、ここに拠点を築くことに成功したというものであった。この功により政長は一族とともに恩賞の内示を受け、次なる作戦を指示されたとなっている、この時、顕信は鎮守府将軍であったといわれている。しかし、陸奥太守、義良親王は下向していないため、国府の機構は設けられていない可能性が大きい。 岩手郡の後は、鹿角郡へも出兵、おそらく鹿角の北朝勢力は浅利氏であったとみられ、攻め入った南朝方大将は南部左近将監信政(政長の子)といわれている。 南朝勢力による府中包囲網形成を願う北畠顕信は、南の結城氏の決起を念じ、さらに北の南部氏の南下を期待していたといわれています。 興国2年春、南部政長は岩手郡西根から南下、厨川(現盛岡北)に攻撃を仕掛けとされ岩手郡の北朝方を駆逐し、厨川付近までその影響下する。 南部氏とともに宮方の奉行だった稗貫郡の稗貫出羽前司(中条氏)、斯波郡の河村氏は北朝方に転じ連合で厨川へ攻勢をかけるも南部方に敗れ、反対に斯波平野は南部騎馬軍団に席捲されたと推測される。 さらに葛西氏と挟撃で和賀郡へも侵入ととれる史料もあるが、和賀郡岩崎盾での戦いは葛西氏と和賀氏との戦い、或いは和賀一族間・・・一族は北朝、南朝にわかれ戦っていることも知られ、この一族間の争いだった可能性も指摘されている。 北奥羽では南部氏の活躍で南朝勢力が岩手、斯波郡あたりまで勢力下に収め、和賀郡へも進攻の構えをみせる戦果により、顕信は南奥羽有力武将へ北上を催促している、しかし結城氏は関東方面から北朝、高師冬軍が北畠親房が居る小田城を伺っているとの風潮で動くことができなかったようで、反対に高師冬も結城氏などの南朝勢力が盛んな南奥には撃って出れない情況だったようで、逆手をとった親房は高氏を攻めて北朝方を後退させています。この戦いで南奥の南朝方は大いに気勢があがりますが、結城親朝はそれでも動こうとせず日和見態度を続けていたといわれている。 糠部兵乱 北奥羽では、南部一族の活躍もあって津軽や岩手郡の有力武家が南朝側に転じ、さらに中奥の葛西氏も一族結束、いよいよ府中を奪還する好機到来とみた北畠父子でしたが、度重なる決起を促す書状を南奥の結城氏に送るも動くことはなかった。 南朝方の作戦に陰りが見え始めた頃、北朝方では、実戦向けの武将、曽我師助を津軽に派遣、津軽の曽我一族を結束させ、南部政長が岩手郡、斯波郡方面に居る隙に乗じて反対に糠部郡に攻め入る作戦を工作したといわれている。さらに南部政長が糠部へ軍を送れば、今度は南部氏の脅威が和らいだ和賀氏等が岩手、斯波郡へ攻め入るといった攪乱作戦だったといわれている。 暦応4年、津軽曽我貞光、曽我師助率いる北朝方が糠部へ侵攻、南朝方、滝瀬彦次郎(工藤氏)が防戦し、戦いは一年にも渡ったとされている。 この時の戦いでは、八戸根城が津軽勢に囲まれ、落城寸前まで追い込まれたが、南部政長が起死回生の突撃で打ち破ったと伝説的に伝えられている・・・しかし、最近の見解では、八戸攻防戦は虚構だったことは疑いありません。 北畠顕信の動向 石巻にて府中奪還の短期決戦を目論んだ顕信ではあったが、糠部方面で南部氏が釘付け、南奥では結城氏の日和見主義と頓挫した形であった。 興国2年或いは3年、奥州でいう三迫合戦が行われ、北朝方、石塔義房と合戦に及んだものとの解釈であるが、大規模なものではなく、各地での小競り合いの中で徐々に南朝方は圧迫され、北畠顕信は敗れた形で宇津峰城へ籠ったともいわれ、後に正平2年、吉良貞家の攻撃にて出羽へ移ったとされています。しかし第二次大戦後、研究が進み鬼柳文書等の解読により滴石(岩手県雫石)に逃れたという形跡もあり、最近の見解では、三迫敗戦後は石巻に居て、しばらくして葛西氏が北朝方へ転じたため、南部氏を頼り北上、滴石に府中合戦がおこる正平6年まで居たとされています。顕信出羽説、滴石説、今なお見解が分かれていますがひとつの謎の部分でもある。 正平元年、北朝方、石塔氏に代わって奥州探題として吉良貞家と畠山国氏が派遣され、奥羽の情勢は大きく変わることになります。特に吉良氏は合戦へも兵を率いて赴くといった実戦的な大将といわれ岩切城へ居たという説が有力で奥州探題府だった可能性もあります。 岩手郡の戦い 興国4年(1343)石塔義房による岩手郡北上があったといわれている、さらに石塔氏後任の吉良貞家は着任早々、南朝方を各個撃破したとみられ、宇津峰、藤田、霊山の各拠点を討つと正平3年、北上川を北上、古都平泉に駐屯し、岩手郡方面に先鋒隊を送って南部氏等の南朝方と対峙していた構図が伺われ、さらに厨川城と対陣する形で上田城を構え、現盛岡市の線まで進出したことがわかっております。これに対し南部政長は延元年間には津軽、鹿角、岩手郡へも進出し、栗屋河合戦(厨川)にて北朝方を破り、斯波郡をその影響下とし、和賀郡をも凌駕するかにみえましたが、糠部で曽我氏の反抗にあって岩手郡からの南下は出来ない情況であった。 興国6年「糠部滴石凶徒」蜂起とよばれる行動にでる、その勢力の中心は南部政長であるのは間違いなく、北朝からは北空に立ちはだかる黒雲の如くだったとされている。暦応3年(1340)関東管領、足利直義から歓降状が意図的に、しかも集中的に出されている。 上田城を構築し北朝の最前線となした吉良貞家に対し、南朝方は攻勢に転じ、上田城を包囲したといわれている。吉良貞家は戦さ巧者で度々防塁を乗り越え現盛岡方面にも出撃し、この付近の占拠に成功したともいわれていますが、寒さ厳しいこの地で越冬させてしまったということで、軍の士気は著しく落ち、包囲される状況下で孤立無援の様子でもあったといわれている。また南朝方も、とりあえず岩手郡と斯波郡との線を確保が重要だったらしく、北畠顕信から和議を申し込み、これを受けた北朝方は撤退したといわれている。 この上田合戦は、北朝方に包囲されたという説もありますが、最近の考察では地理的、戦略上の観点から南朝方が包囲との説が有力とされています。 いずれにしても、北朝方は斯波郡と岩手郡の線まで進出、南朝方も辛うじて岩手郡を守ったという展開であった。 府中合戦 上田合戦が異例の和議となり、北上川中流域では兵火がやみ、休戦状態となるや今度は府中方面の中奥、宮城野で戦火が起こる。まずは共に北朝方の吉良氏と畠山氏、両探題の対立となり、中央での足利直義と高師直との関連での争いとみられ、畠山国氏が直義派の吉良氏に討たれた機を逃さず出羽に居た北畠顕信は、府中奪還を発動します、正平6年11月、遂に顕信は念願の府中を奪還、府中城に入ります。府中城が探題府だったというのは推論によるものとの見解もありますが、謎の部分として今後の研究成果を期待するものです。 府中を失った吉良氏ではあったが、この敗戦は余力を残したものとされ、さらに足利尊氏の強力な後押しがあったといわれ、中奥各地で関連する戦いがあり、吉良勢の攻勢に南朝方は城を逃れ再度北朝方の手に落ちます、南朝勢力は宮城野の西方面をなお確保していたが翌年冬には山村城、小曾沼城が攻略され宮城野の南朝拠点は壊滅したと記録されている。 この時、南部伊予守は山村城の守将格とされ、北朝方に転じたとされており、この人物は三戸南部氏・南部信長(行長)との見解がある。 北朝転身後は、甲州の所領を安堵されたものか、戦時中に降伏、南朝方からみれば敵前逃亡と同じといわれ、三戸に居た信長の嫡子、政行は苦境に立ったのは間違いありません。 北畠顕信は、奥州から逃れ出羽に活路を見出そうとします、南奥も伊達、田村氏が南朝の旗を守ってましたが、出羽はまだ無傷に近い状態の南朝勢力圏も存在してたとの理由も成り立ちます、しかし、北朝方もこの点に着目し、南出羽に攻勢をかけ、顕信は放棄しなければならない場面となったとされます。しかし、出羽では約30年もの間膠着状態だったとされています。 奥羽では北朝方優位に進展はしているが、北朝勢力間の内紛がおこり、足利尊氏は吉良氏に代えて一族の斯波家兼を奥州探題として任命派遣している。(文和3年・1354) しかし、大勢に影響するようなことではなく、北奥羽は従前どおり南朝勢力圏であり、なんとか南出羽の北畠顕信を追い、北出羽へ走らせ、山形に斯波兼頼を派遣(羽州守護、後の最上氏)さらに斯波郡(志和)にも一族を配したと伝えられますが、こちらは戦国初期との見解といわれています。 北出羽に移動した顕信は、南部信光と接触、信光、政光兄弟に所領安堵の沙汰をしています。さらに南部氏は津軽で北朝の旗を守っていた曽我氏滅亡に関わり、後村上帝の綸旨を請け信光に自筆の書状とともに転送している。 奥州南北朝時代まとめ 南北朝時代の争乱は、東北、九州という辺地でも繰り広げられましたが、九州や中央のような大きな戦い、目立った戦いもないということで重要視されていないのも確かなことです。 しかし、奥州での争乱の着目点は、南北朝時代前半の20年が歴史的に取上げられる点で残りの30年はほとんど語られないのが現状です。これは違った意味では、北奥羽と出羽という奥州地域の3分の1という広大な地域を南朝方が勢力下にしていたという事実、太平記などには悲壮感漂う南朝方が多く取上げられているが、奥州に至っては前記のとおり、前半20年部分しか物語に値しなかったのだろうか?・・・・ ともかく、北奥羽という広い地域を南朝色とし、活躍したのはやはり南部氏が中心であるのは間違いない史実です。 |