

北畠 顕家 1318〜1338
文保2年、北畠親房、長子と生まれる。
十代で異例の昇進を重ね、平穏な時代なら将来を約束された有望な青年公卿だった。
建武親政がはじまると僅か16歳で従三位陸奥守となり義良親王を奉じて奥州へ下った。
後醍醐天皇の期待が大きかった顕家は、現地で政務機構の整備など精力的に統治を行い、また奥州在の武家の意向も尊重するよう努めたといわれている。
建武二年、中先代の乱にて北条時行が鎌倉を占領すると足利尊氏が独断で東上、鎌倉を征すると後醍醐帝の命により新田義貞が追討使となり東上、しかし新田軍は足利軍に敗れ京都へ撤退、顕家は奥州軍を率いて西上、鎌倉を落とし京都の足利尊氏を九州に追い落とす。
鎮守府将軍となり奥州に帰還するが奥州は内乱となり、その抑制に苦労し霊山へ本拠地を移す。さらに九州から足利尊氏が京都へ進軍、後醍醐帝からの上洛の報が入るもすぐに進発できない情況下ではあったが、奥州軍を率いて再度西上、各地で足利軍を破り、鎌倉を占領、その勢いはまさに南朝最後の頼みの綱となった。
しかし、連戦の疲労と兵員の増員のない奥州軍は、ついに泉州石津で高師直軍に敗れ、21歳の若い命を散らした。
北畠 顕信 生没年不詳・・・・北畠親房二男と伝えられている。
奥州にて活躍の20年余を年表風に紹介します。
第一期
義良親王を奉じ、父親房等と共に海路奥州を目指すも嵐にて伊勢へ戻される。
興国4年(1340)、鎮守府将軍として奥州入り、その経路にはいくつか説が論じられますが、海路、石巻(現宮城県石巻)に至り、日和山にて葛西氏の援助、或いは桃生、牡鹿郡の武家等を配下に、石巻近辺に将軍府を置いていたとされている。興国3年秋までは、南部氏、葛西氏、結城氏、田村氏、伊達氏などの有力武家に支えられ三迫合戦などを指揮していたと思われる。
第二期
三迫合戦の後、2年程史料の空白があるが、興国6年(1345)顕信は活発的な行動に出て両朝の戦線も北上川流域に移り、正平5年(1350)岩手郡での上田合戦の時期には、南出羽に拠点が移っていたとみられ、それでも南部氏等の岩手郡以北の南朝方の結束を図るため、滴石(現岩手県雫石)に北上、この地より指示などを発していたとされる。
上田合戦では、和議によって南朝勢力の岩手郡確保に成功させる。
第三期
観応の乱の影響を受けた北朝方、吉良氏と畠山氏との内紛を好機と捉え、府中合戦を発動、正平6年から宇津峰城に居て作戦を指揮したが、同8年、吉良貞家に宇津峰城を攻撃され南出羽へ移動、その後正平11年頃まで南出羽を本拠地にしていた。
第四期
北朝方の出羽方面への攻勢が本格的になると、由利郡へ移動、北出羽に拠って同地を確保し、それでも北出羽(現秋田県)から南部氏の勢力地域、北奥羽(現青森、岩手県盛岡以北)を南朝方の支配とし、同地で没した可能性も否定できない。
顕信の末裔と称する津軽北畠氏は浪岡にて戦国期までその系統を伝えている史実もある。
ただし、顕信の足跡は、正平17年(1362)の書状が最後となっており、約20年にわたっての奥州での活躍であるが、奥州にて没したことは十分考えられるものかもしれません。
曽我氏
相模国曽我郡を本貫地とする鎌倉御家人。
津軽地方に居たとされる曽我氏は、津軽岩盾村、北条氏の地頭代だったことは史料でも明らかにされている。
元弘の乱の時に一族が分裂、津軽争乱で一族の大半が没落或いは降人となり、勢力は著しく減退したといわれている。しかし、平賀郡に居た岩盾曽我氏だけは国司方に与し所領を安堵される。ところが足利尊氏決起には足利方となり、その後は北朝方として南部氏や成田氏といった南朝方と津軽方面で戦い、遂に力尽きて滅亡した全国でも数少ない武家として今に伝えられている。
安藤氏(安東)
津軽安藤氏は一説には、前九年の役で没落した安倍一族の後裔ともいわれているが、いずれにしろ鎌倉幕府以前からの在地勢力とみられている。その勢力範囲は下北半島から陸奥湾、津軽半島、西浜とよばれる、西津軽郡地方と広範囲の海岸沿いで鎌倉末期の史料では地頭代官職とされ、北条氏の地頭代だった可能性も否定できないが、これらの地は安藤氏の勢力区域だったのは間違いないと思われる。
元享2年、津軽安藤(安東)の乱がおこる、これは安藤一族の抗争だったが、各地に一族が分流しふたつの勢力が争ったものと解釈されている。この乱には東国武士や奥州武士の多くがその鎮圧に動員され、この事件が鎌倉幕府衰退の原動力だったといわれている。
元弘・建武年間の一族
安藤宗季・・・安藤宗家、下北・陸奥湾・津軽半島・鼻和郡の一部
安藤師季・・・宗季の子、はじめ高季と名乗り、北朝方として津軽に勢力を張るも南部政長の勧誘に応じ南朝方となる。
安藤次郎・・・安藤祐季・十三湊を拠点とした安藤支族
安藤又太郎・安藤の乱の一方の当事者として名がみえるが、代々襲名の名であり、宗家の世襲名
安藤孫五郎・秋田小鹿島(男鹿)在住、秋田北部地域にも所領があったとみられる
安藤氏は後に南部氏と鹿角、津軽で戦い、その抗争は戦国時代までつづいたが、津軽地方を失い秋田方面の支族が台頭し檜山安藤氏となり後に秋田氏を名乗りその命脈を保ち、江戸期は田村郡(福島県)へ転封、幕末まで存続している。
工藤氏
工藤氏は鎌倉御家人で、鎌倉末期に名が出てくる工藤貞行は、津軽黒石の他、常陸国や伊具郡、鎌倉などに代官職を持っていたことが明らかになっている。元享2年、安藤の乱にて出陣後、黒石の所領は長女の加伊寿御前に贈与したとの見解がある。工藤一族は糠部郡、岩手郡、津軽にも一族が配されており、これら奥州の工藤氏は本家筋の地頭代、代官として下向していたものと思われる。この黒石の工藤氏の所領を婿養子となった南部政長或いは子の信政が継いだのではと見解が示されている。
なお、北奥羽に点在する工藤氏の一部は、元弘の乱にて降人、あるいは没落したが、厨川工藤氏は後に三戸南部氏、八戸南部氏といった南部一族配下となっている。
その他の諸氏、諸家は徐々に追加してまいります。