| あくまでも遠野南部家に伝わる伝承によるものです |

| 元弘4年改め建武元年、国司代として奥羽に下向した南部師行は、各地の紛争、事件を処理して寧日がなかったが、11月、最後まで反抗した津軽大光寺党、曽我一族を屈服させ降人となし、ようやく陸奥(北奥羽)が平定となる。 この師行の北奥羽平定こそが、後年の「三日月の丸くなるまで南部領」の基礎をつくったものと伝承されている。 中央では武家方、宮方の反目が決定的になり、征夷大将軍、大塔宮護良親王が鎌倉に流されて土牢に幽閉されるなど争闘が表面化する事態となるが、陸奥の各地は建武2年になっても平穏だったので、師行は元弘3年以来廃絶していた櫛引八幡の祭典を復活、8月15日盛大な祭礼を催したと伝えられている。 三戸櫛引八幡は、南部本家(盛岡南部)第2代南部実光が、甲州の氏神を承久年間に岩手郡滝沢に勧請建立したと伝えられ、それを貞応年間に三戸の櫛引に遷座したものと伝えられている。南部本家では代々毎年その祭礼を司って来ていたと伝承されている。 ところが元弘3年5月21日南部本家第11代南部茂時は、鎌倉幕府執権職北条氏に味方し、北条氏の滅亡に殉じたとされ、その結果南部本家は奥州の所領と官を没収され、奥州旗頭の地位を失う事態となり、元弘3年、建武元年の祭典は行われなかったと伝えられ、神社の附人や神官達は流散、祭儀はすっかり荒廃してしまったとされている。 南部師行は、陸奥が平穏に帰したのを見ると、「櫛引八幡は南部家の氏神であると共に、我家の氏神でもあり、その祭祀を荒廃のままにして置くは神に対して不敬であり、かつ領民の平和鎮守に妨げとなる。速やかに復興して陸奥の鎮護となそう・・」と言って、建武3年8月15日、その祭典を盛大に復活催したとなっている。 この際、南部師行は鎌倉鶴ヶ岡八幡の神事、流鏑馬にならって流鏑馬を奉納したとされている。 応永18年南部本家、三戸第13代南部守行の秋田征伐に際し、遠野南部家(八戸根城)第10代南部光経がその先鋒として奮戦し、敵勢を敗って戦勝の功をあげたその御礼として、櫛引八幡に代々永久に毎年流鏑馬を奉納することを誓ったとされ、その後遠野南部家の奉納行事として続けられているという伝承です。 この応永18年の臨時大祭では、三戸家と七戸家から祝儀として一騎ずつ出場し、それが前例となり以後三騎で行うものとなったものといわれている。天正19年の九戸の乱にて七戸家が滅亡したので四戸家が代わったとされています。 寛永4年、遠野南部家が八戸から遠野に移封した際、南部本家南部利直が「三戸櫛引八幡の流鏑馬奉納行事は、代々貴家の由緒ある奉納行事であるので、遠野に移っても従来通り貴家で行って貰いたい」と譲ったとされ、遠野に移ってからもわざわざ遠野から出張して奉納したとされ現在も行われている。 寛文2年、遠野弥六郎直義(八戸直義)は旧領主阿曽沼氏が創建した松崎宮代の八幡社を現在の地に移して、櫛引八幡の分霊を祭って遠野八幡社を創立、最初の祭典に櫛引八幡の流鏑馬にならって神事流鏑馬を奉納、以後櫛引八幡に於いては8月15日、遠野では9月15日奉納流鏑馬を奉納することになったといわれています。 実際は直義の子、遠野第2代、義長の建立とあります。 この流鏑馬は江戸藩政時代続けられていましたが、明治になって双方とも廃止となり、それでも遠野では有志によって断続的に続けられていたそうです。 大正に入ると途絶え、太平洋戦争に至り、戦後、昭和29年、保存会が発足し復活再興され現在に至っております。 |
