田名部(下北半島)戦争・・蛎崎討伐のこと
鰐食いの短刀の話は、民話として語り継がれてきたものです。しかし、単なる民話としての捉え方ではなくこの話の背景には歴史的な事実を元に成立したものとの解釈もされています。
康正3年、八戸第13代、南部政経は田名部(下北半島むつ)に勢力を持っていた蛎崎蔵人討伐のため、根城八戸氏は七戸氏の協力を得て野辺地から海路、田名部へ進撃、しかし海は大荒れで南部軍団の船は難破寸前だったが、一同海神の怒りによるものということになり、南部軍一同は自分が一番大切にしている物を各自海に投げ入れたといわれています。
その中で橘豊後という隊長格が一振りの脇差を、神郷寺(常福寺)の和尚は捧持していた秘仏のドラを投げ入れたのですが、海神も献上物に満足したのか一転して海は穏やかになり船団は田名部へ上陸、予定よりも早く蛎崎城の近くに上陸でき、城を攻撃、なんとか蛎崎氏を追い落とし、田名部を占領、ほどなく南部軍は凱旋帰国を果たすべく海路にて国許へ帰ることになったが、船が来る時大嵐に見舞われたところに来ると不思議なことに立ち往生、またもや海神の仕業か?と一同思っていると、海水が山のように盛り上がり、その波の中から大きな鰐(鮫)が現れ、なにやら口に加えていたものを船中に投げ入れ、あっという間に海中へ消え去ったといわれ、投げ入れられたものは、橘豊後の脇差と和尚の秘仏のドラだった。一同はこの二品は八戸南部家にとっては失ってはならないものということで海神がわざわざ返してくれたものと受け取り、以来、鰐食の短刀、鰐食のドラという民話となったと伝えられています。
この伝承は遠野南部家の伝承、公式文書にも記述されているとのことです。

この鰐食の短刀は、初代南部実長が身延山久遠寺建立の際、家臣三名に奉行を命じその責任者に橘光広を指名、実長は橘に我名代として心して工事に携わるようにとの意味合いで、いつも差していた脇差を与えたと伝えられている。そして無事、寺建立が成るとこの宝刀を私物として我家で持つべきものではないと判断し、落慶の祝儀として久遠寺に奉納したということです。その後、寺にて大切に保管されていたそうですが、橘光広の三代後の橘民部行広が久遠寺に頼み込んで橘家に返してもらったということです。
その後、後継達に宝刀として伝えられ、橘一族総領の印として大切な家宝になったものだったとされています。
民話としての鰐食の短刀
田名部戦争
田名部戦争
田名部討伐と後花園帝国宣
田名部(下北半島)一帯に勢力を張る蛎崎蔵人は、悪逆無道で京都大番役を怠り上洛せず、段銭棟別銭を横領してこれを献納せず・・・よって、後花園天皇の勅命により、これを討伐し、蛎崎田名部を占領したという大義名分によるもととなっている。

後花園天皇国宣
「両国へ被成綸旨候。是又珍重候。同事書写遣え候。内裏段銭の事、先度被仰出候。然者大田大炊使節候。定近く其方へ可下着候。  速沙多候者。目出度候。恐々謹言。
六月十一日            教兼
八戸河内守殿
上記の古文書が遠野南部家に残されており、このことが蛎崎討伐の理由であると示されていた。しかし、この古文書はかなり難解な草書で書かれ、大正年間まで正確に読んだ人物はおそらくなかったろうといわれております。遠野南部家物語などの著者・吉田政吉氏等の解読作業により、八戸南部家に対する私信とみられ、さらに上記の記述をみてもどこにも蛎崎の文字は見当たらない。
「両国へ綸旨(天皇の下し文)なされ候。これまた珍重候。同じ事の書き写しを遣わし候。内裏段銭のこと、先度仰せ出された候。しからば大田大炊使節候。定めし近くその方に下着すべく候。速やかに沙多候者、目出度く候」つまり段銭の課税のため、その催促徴収に大田大炊が綸旨の写しを持って出発した、多分近いうちにその地に行くであろう・・・という内容です。
教兼とは、山科教兼といわれていますが、後の見解では斯波教兼に下った綸旨であり、探題斯波氏から南部河内守政経に出された書状と間違いないものとなっている。
段銭棟別銭とは、天皇御所、伊勢神宮等の朝廷関連の施設改築や修理の名目で地方に、田一反部にはいくら、農家一軒あたりいくら・・と課税したもので地方武士も納得して納税したというものです。
以上のことから田名部地方に居たとされる蛎崎氏討伐とはほとんど関連性のないものということになります。
康正3年2月23日、八戸南部軍が田名部へ向かって進発、八戸港を出帆し田名部蛎崎港へ海路向い翌朝未明に蛎崎城近くの砂浜に上陸、そのまま夜襲を行う作戦もあったが敵地での夜戦は不利、夜明けとともに城方の寝込みを一挙に襲うこととし、全軍鳴りを沈め、時期到来を待ったとされている。
ところが、南部方の血気盛んな若侍の中で、工藤与四郎、悪虫大蔵、西沢左京、塗田子民部の四人が夜陰の中、陣を抜け出して夜闇を利用して城へ入り、不意を襲って城を落そうという抜駆けの行動にでたという、しかし、城内に忍びこんだはよいとしても、蛎崎蔵人の寝室はおろか、城内の勝手もわからない状況で、あちこち歩き回っている間に城方の警備兵に見つかり、逆に包囲されてしまったという。
南部勢の陣では、にわかに城が騒がしくなったので、何事か・・ということで物見を出したところ、四人の抜駆け、それも包囲されて全滅の寸前とわかった。すると四人の縁者知人達は、たとえ軍律を犯しての罪とはいえ、みすみす見殺しにするのも忍びないと口にすると、我先に現場へ駆けつけ助太刀となったということで、図らずも本当の合戦に移行してしまったといわれている。
しかし、いきなりの城攻撃となり当初の作戦とはかけ離れ、南部勢が我勝手に戦う現状では、城防備の蛎崎方有利の展開となり、総大将の南部政経は一時退却を決め、副将の七戸弥一郎綱高に指示、七戸綱高は、戦いの最中に割って入り味方に退却を檄し、殿となって南部勢を退却させたといわれている。
さて、当時の抜駆けとは軍法違反の意味合いで厳しく禁ぜられていたというもので、それを行った者は厳罰に処されるのが常ではあった、しかし、この行為が成功すると抜駆けの功名として、全軍の士気の高揚、大いに褒められることでもあったので腕に覚えのある武者達はよくやったものともいわれている。
今回の四人は、総崩れの要因にもなったが、ここで四人を罰すれば軍の士気弱体になりかねないと判断した南部政経は四人を強く叱っただけで罪は問わず、今後の戦いでの奮戦をと激励したと伝えられている。
一方、蛎崎方は、南部軍到来は予期し戦いの備えは出来ていたが、何分にも夜襲という不意の戦いとなり領内からの兵が動員できず、一度は南部勢の攻撃を退けたが、未だ数倍の南部軍が陣を構えていることで、まともな戦いでは城方全軍の全滅の恐れがあると判断し、一時的に城を放棄して再挙を図ることとなり、蛎崎蔵人一族は夜中に城から脱出、山越して本浦港に出て、船で蝦夷松前に逃亡したといわれている。
敗軍をまとめて兵を休ませた南部軍は、蛎崎一族逃亡の事実も知らず、いよいよ総攻撃となり攻撃を仕掛けたということですが、城方からの反撃が皆無、これは何か策略があってのことと攻撃は慎重になりむやみに攻撃は仕掛けないで様子をみていたということですが、やがて空城とわかり全軍入城を果たしたとなっている。
そして直ちに田名部全土の支城を各将が攻め、まず新田晴継が堅城の天満舘を攻め、舘将の天満五郎左衛門を討ち取ると西沢三郎民部は浅河舘を攻め、浅河清兵衛を討ち取り、さらに石河舘の石河浅右衛門も討ち取る働きをみせた。そうなるとたちまち付近一帯の蛎崎方諸将達は、南部勢の膝下に降伏、ほとんどは南部各将の旗下に組み込まれ、反抗するものは討伐され、完全に田名部すなわち下北半島全域が八戸南部氏の領地となった。

この田名部討伐に関しては、まず八戸港から海路出陣と記されていますが、当時、八戸から下北半島までは5日を要したとあり、風向き、潮の影響などの気象条件によるもので、途中の各港に寄港しながら風などの様子をみながら進むといった具合だったといわれている。
近世の研究では、八戸から陸路七戸へ至り、野辺地港から田名部へ向かったという見解が示されている。野辺地からでは帆船でも一昼夜あれば着く距離というのがその根拠ということになっている。
蛎崎蔵人
南部氏同族といわれ、本姓・武田信弘
早くから下北半島蛎崎港を本拠に居城を構え、この地を支配していたといわれている。
なお、津軽安東氏の一族との説もあって、南部氏と安東氏の抗争のひとつだったともされている。(蛎崎の乱)
南部氏との戦いで下北半島を追われた後は、蝦夷にて一大勢力になり、蛎崎蔵人の養子、武田信純は後に松前氏となったといわれている。
なお、蛎崎氏(松前氏)関連は、HP蛎崎幕府がより詳しいです。巻頭のリンクコーナーよりお訪ねください。
田名部討伐については、南部家伝承の他に、東北太平記という古書が存在しています。
これは元禄期に羽州久保田(秋田)にいた南部藩浪人、福士長俊が書いた田名部の歴史、つまり下北半島の興亡史を書いたものとされています。
その最終巻には「田名部御陣日記」が記されており、田名部側からみたものとされていますが、戦記物の意味合いが強いものとなっており、史実と少しかけ離れているとの指摘もありますが、記載の人物名等は実在の人物とのことで、あながち無視もできない史書ではあります。
一方、遠野南部家での田名部討伐に関する記述は、徳川中期に宇夫方政周、広隆に書かれたものでもしかしたら元禄期に書かれた東北太平記を参考にした可能性もあります、しかるに記述内容を省いたり意味にそぐわないものは無視したものかもしれません?。
田名部御陣日記
中納言山科教兼補任状
田名部討伐の理由については、後花園帝の勅命によるものととされてきたが、既述のとおり歴史的にみてもほとんど根拠のないものとの捉え方ができる。
ここで、田名部討伐による戦役行賞の補任状が遠野南部家に残されており、まずはこのことについて記述いたします。

新田晴継・・太刀一振 近江守に任ず  中舘勝忠・・宮内少輔  田中左馬尉・・備中守
岡前兵部・・備前守  杉岡小三太・・山城守・・・・・等 20名が遠野南部家御家伝に記されている。
この補任状そのものは、当時のものとの信憑性は高いとされ、紙質、墨跡、文章とも当時のままである。しかし、当主の南部政経は従五位下河内守であるのに対して家臣の何人かはそれよりも上位の官職であり、あきらなに無理な話しでもある。
また、朝廷からの官位を受ける場合は、足利将軍家からの申請により下賜されるもので、天皇といえども単独で下賜することはなかったとされています。
さらに教兼とは山科教兼ではなく、奥州探題、斯波教兼との見解もあり、斯波氏からの可能性が高いとされています。 
いずれにしろ、補任状は南部氏が蛎崎討伐の正当性を示すため、朝廷の命令にて行った、よって山科教兼あるいは奥州探題斯波氏と図った結果ではないか?
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