| 舘(城)名 | 西風舘(ならいだて) |
| 所在地 | 岩手県遠野市綾織町新里 標高324m、比高64m |
| 現存遺溝 | 山城 帯郭 空掘 土塁 北側下部に西風館八幡社 |
| 関連諸氏・人物 | 宇夫方広豊 広本 西風舘広久(大学) 西風舘典厩(栃内兵部) |
| 築年代・使用年代 | 宝徳年間〜慶長初年 |
| その他 | 西風館大学広久→広敏とも記述 |

| 宇夫方氏隆盛と没落(通説概略) |
![]() ○ 宇夫方氏の概要 文治5年、阿曽沼広綱に代わって遠野へ下向し、以来代官として遠野統治を直接取り仕切った宇夫方氏。 宇夫方氏の遠野への本格的土着は広房孫の広冶、広光時代と考察しておりますが、広冶は綾織方面に進出、谷地舘を築いて綾織方面の開拓を始めたことが伺われます。 以来宇夫方氏は綾織に勢力浸透を図りこの地方を領有することになったものと思われます。 下向後、100年前後の年月経過とおもわれますが、在地勢力とされる宮森氏と婚姻を結び、さらに達曽部氏へは養子として男子を送り込むといった事柄で、まずは西側の強豪勢力と協力関係を構築、南北朝動乱で当主が戦死とされる事柄も伝えられますが、なんとか後継にも恵まれ、遠野郷外の諸氏とも婚姻関係を築いたり、一族や家臣を各地域に配して、その中心たる舘を築かせ、村や農地の確保、さらに開拓と徐々にではあるが遠野地方全土を把握し、その絶頂期を迎えたものと思われ、阿曽沼主家第8代と一応に伝えられる阿曽沼秀氏時代、この頃に主家の本格下向があった考察されてますが、気仙の岳波太郎、唐鍬崎兄弟、大槌孫三郎が遠野へ攻め寄せた永亨の乱では、遠野方を糾合して一番に主家の危機を救わなければならない宇夫方氏、それに連なる一族、家臣までも日和見態度だったと伝えられ、200年を要して遠野治世の基を築いた宇夫方氏の影響力が多大だったことが伺われます。 遠野統治の主権が主家にどの程度まで移行したかは定かではないが、宇夫方氏は谷地舘を中心に綾織方面で勢力維持に努めていたと想像され、後継が絶たれた際には主家より養子を迎え(阿曽沼光綱三男・守儀)家名を存続させたが、宝徳年間、葛西氏臣、金成政実が葛西勢を率いて谷地舘を急襲、それでも当時遠野地方第一の実力を備えた宇夫方氏はよく防戦し隣接の鱒沢舘、兄の鱒沢守綱、縁戚の宮森舘主、宮森主水が兵を率いて葛西勢に討ちかかると流石の葛西勢も攻め倦んで落城は免れたと伝えられ、篭城戦となるや、達曽部領主、達曽部民部、稗貫臣で大迫領主、大迫掃部が援軍を率いて来援すると葛西勢は混乱、立場逆転し、葛西勢は大敗したとされる。 この戦いから伺われるのは、かつて宇夫方氏と婚姻等で結ばれ、縁が深い諸氏がこの時代になっても協力関係にあり、また遠野第一の実力者、宇夫方氏をまずは攻めるといった行為、この時代でも宇夫方氏は内外に名声が高かったものと思われます。 しかし、この戦いによって谷地舘近在の村々は葛西勢の略奪にあい、地域は荒廃、さらに山城の必要性を痛感した宇夫方広豊は綾織新里の地に西風舘を築く、戦いでの荒廃、新舘の普請と徐々にその武力や経済力も傾斜方向となったと思われ、主家や鱒沢氏の主家一門が勢力を伸張する時代へと移行することになる。以後、宇夫方氏の主流は西風舘を主舘として西風舘氏となる。 弘治3年、西風舘が葛西勢といわれる一団に夜襲を受けた事件があったとされる。この戦いで不意を襲われた宇夫方一族は当主、広本、長男、次男も討死に、辛うじて三男で幼児だった広久が母に抱かれて脱出、縁戚の達曽部氏に庇護されたいわれ、この事件で宇夫方氏は壊滅的打撃を受けて没落したと伝えられる。 後に西風舘は西風舘広本の妹を室とする栃内舘主、栃内兵部に与えられ、谷地舘は阿曽沼広郷の弟とされる上野広吉に与えられたと伝えられる。 不遇な時代を過ごしていた西風舘広久(大学)は、成人後、谷地舘の上野広吉に寄食していたとされますが、遠野最後の領主、阿曽沼広長が鱒沢広勝、上野広吉等によって遠野を追われると、上野広吉によって捕らわれとなった広長の奥方、子供達が処断されそうになると、広吉にその非道を諌め、広長夫人、幼子を実家である気仙の世田米へ送ることを進言すると、夜陰密かに間道を経て世田米の実家に送り届けると、最上から帰途につく阿曽沼広長へ遠野の異変を伝え、以後、広長に従って遠野奪還戦の戦陣にあったといわれておりますが、広長軍最後の樺坂峠の戦いで深傷を負い、和賀郡の安俵に隠遁し、しばらく傷の養生に時を費やし、後に上野広吉が病死すると旧領の綾織、谷地舘へ帰ったとされ、嫡子の宇夫方清左衛門広道が寛永年間、遠野領主となった八戸直義(遠野南部氏)に40石を給され出仕、以来遠野南部家に代々仕えた。 |
| 熟知度V | 規模B | 保存状態B | 難易度V |
| 西風館と宇夫方氏 |
| 舘と舘主、その光と影・諸氏の栄枯盛衰 遠野の城館跡 |
| 西風館 |
| 背 景 |
| 綾織町新里地内、現在は舘中腹を横断する林道が敷設され、遠野九重沢から小友土室までつづいている。 館山は、背後は桧沢山に峰で通じ、さらに背後は物見山で舘は北を正面としている。東、南側も物見山から連なる山林地帯で、唯一、北側だけが開けた観があり、林道下は杉林、畑、そして日影地区の集落で旧国道283号線までは、直線距離で400m余りである。 標高324m比高64mとされるが、国道方面から見ますと山の中腹という感じがし、かなり高い位置にあることがわかる。現在は舘山を含む山林に鉄塔が間隔よく設置されており、突出した小高い山の頂上付近に立つ鉄塔が目印である。 林道南側の上部は杉林と雑木林が混在し、急傾斜を形成しているが、5段からなる帯郭と左右の峰には小さめの帯郭がそれぞれ数段配され、主郭と思われるさらに上部の平場には2段からなる帯郭があり、その背部には、電力会社による鉄塔があるが、この部分はかつては堀跡と思われ、その背部の斜面には3重の堀が確認できる。 空掘は東西それぞれに下り、東側は途中沢と共に駆け下っている。 なお、舘全体は林道の上方だけではなく、その下部も含まれ、旧国道近くの八幡神社、民家がある辺りもその一部だったといわれ、堀跡や段差のある形状が確認でき、南北に長い舘だったと思われます。 |
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| 全景・・・中央鉄塔のある山野 | 三重目(外側)の空掘跡(西側) |
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| 二重目の空掘(西側) | 同左 |
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| 一重目(内)西側の空掘 | 主郭部の平場 |
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| 主郭部背部の空掘跡と土塁 | 同左 |
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| 背部の空掘と土塁 | 西側部分外側の空掘跡 |
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| 背部の土塁跡 | 南側、最終の空掘跡(最背部) |
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| 土塁と空掘跡・・・南側から撮影 | 外側、西部分の空掘跡 |
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| 主郭、北側部分の平場 | 東側の空掘 |
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| 主郭下の帯郭 | 東側の帯郭 |
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| 北側中腹の帯郭 | 同左、西寄り |
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| 北側帯郭 | 同左 |
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| 林道下山林の空掘跡と民有地の段差 | |