| 舘(城)名 | 駒木舘(こまぎだて) |
| 所在地 | 岩手県遠野市松崎町駒木 海上 7地割82−18 |
| 現存遺溝 | 帯郭 土塁 空堀 城規模 東西100m 南北100m(山城) |
| 関連諸氏・人物 | 不明・駒木某 |
| 築年代・使用年代 | 不明 室町時代〜戦国期 |
| その他 |
| 背 景 |
| 松崎町駒木、字名で上野と呼ばれているところの東側山野であり、背後東側は高楢山に連なり、北側は福泉寺方面、南は八幡座山方面、どちらも谷によって断ち切られているが、峰は連続してつづいており舘は西側を正面としている。 東側の高楢山はテレビ中継塔があり、中継塔へ行くための林道が敷設されているが、悪路であり普通自動車での進入は難しい。 舘山は上野とよばれる場所からは視認できなく、中野と呼ばれる県道付近からその前景部分を見る事ができるが、土淵町栃内に通じる林道ではなく途中から左へ折れる道に入り、峰ひとつを越えるようにその間を縫って登り、標高450m比高150m、遠野地方の舘では高山に位置するもので、ほとんど山間の立地で、古に舘があったとは想像し難い場所である。 高楢山にテレビ中継塔が建設され専用の林道が敷設されたと思われるが、舘頂部の堀切、その空堀はそのまま林道として利用されたと思われ、舘の上部南部分を縦断している。しかし、その堀切跡は高さも十分で(5m)背部の堀切であると判別できるもので、さらに東へ12mほど進むと南側の斜面と道を挟んで北側の斜面には空堀と思われる遺溝が確認でき、道路となってはいるが、二重の堀が背面、すなわち東側にあった名残をみることができる。 頂部、東端には一段下がって堀跡がみられ、背面は3重の空堀だった可能性もあるが途中で途切れ、南側はその跡と思われる痕跡が林道と平行するように西側方向へ下っている。 頂部平場は西から数段の平場が確認されるが東側の最も高い位置では、南北10m、東西約50mである。西側は数段の平段が断続的につづき、北側は斜面を縦断するように3重の空堀がカーブを描きながら西方面、北方面に駆け下っているが高さ2m幅2mほどである。 西側は8段の平場が確認され、約幅3m〜4m、高さ1m〜2m、長さ10m〜25mである。 またその下部には竪堀がみられ、南側から北へ下る空堀と連結されている。 北側は斜面が下る急傾斜地で3重の小さな空掘が配置され、南側、北東側にそれぞれ下っている。 |
| 郷土史コラム・駒木氏(前駒木氏) |
| 駒木舘は謎の舘とされておりますが、駒木氏との関連も指摘されております。すなわち天正年間以降八幡舘に居た菊池姓駒木氏の戦時用の舘として機能していたのではないか?八幡舘よりは規模も大きく、防御の点では優れているのではとの見解もあり、私自身も現地を確認しましたが、いわれてみればそんな感じもしないわけでもなく、守るなら駒木舘と考えるかもしれません。 八幡舘とは直線距離で1キロほど、駒木氏によってある程度修復された可能性もあり、割と判別可能という遺跡の残存状況も良好ですので、築舘後に再度手を加えた可能性もあります。 先人の郷土史家達の見解によれば、安倍時代築と記されているが、その構えは戦国的であり、伝承、謎の館とされる謂れのものすべてに安倍時代やらそれ以前と考察される東北型チャシとする考えには異論もあります。 しかし、いつ、誰が、何の為に・・・を地でいくような典型的な駒木館、伝承も皆無に近く、ただその場所に知られざる史跡が眠っているとかしか、言い様のないものでもある。 ○ 駒木氏 駒木地区には、駒木氏とされる一族が以前からあったと伝えられています。天正年間、八幡舘に居た菊池姓駒木氏とは別系統で、それ以前の一族ではないかと考察されている。 海上集落に西教寺という古刹がありますが、この寺の開基に関わった人物に駒木某という名があったとされ、ただし残念ながら後の火災で史料等は灰となってしまったと伝えられ、それでも元亀年間と伝えられまさに戦国時代であるが、伝承では開基に関ったのは天文年間ともいわれる。 ここでは天正年間以前の駒木氏を前駒木氏、以降の八幡舘の駒木氏を後駒木と便宜上区別して記述いたします。 前駒木氏は、一説には多田源氏流の多田氏ではなかったのか、いずれにしろ阿曽沼氏が遠野で勢力伸張期に入る前の在地勢力だったと推測できる。そして代官宇夫方氏と何かしらの接触があってその勢力下に入ったものか、独自に駒木地方に勢力を持っていたかは不明ではあるが、後にその傘下に入ったのは間違いないものと思われます。 前駒木氏の推測による出目について ○前九年の役にて、源義家配下の井手氏と駒木との接点も語られますが、後にその末裔が駒木 舘を築舘した可能性もありますが井手氏、それらに連なる一族が阿曽沼時代散見されず、その井手一族はどこへ行ったのか?(附馬牛町には井手姓有り) ○小友地方に南右近と並び称される駒木左近といわれる武将が居た。この駒木氏は駒木から阿曽沼氏により領地替えをされたか、前駒木一族の誰かが新たに封地を得て移住したものなのか? ○天文、元亀年間、西教寺開基に関わったと伝えられるので、戦国期のある時代までは駒木地方を領有していたが、阿曽沼広郷時代、広郷は領内の配下土豪、舘主達で主家と距離をとっていた武族を武力で圧した事実があり、前駒木氏もこの討伐対象となり没落したのではないのか? 以上が今現在、私が考察している内容ですが、舘下の海上寄りの中野と呼ばれる地域には昔、集落があったとされ、駒木舘直下の中心的集落だったのではないか、また集落の戸数は数戸とされますが明治初年までこの地域には民家が存在した事実もあったとされます。 さて、三つほどの疑問点を挙げましたが、多田氏系一派の遠野流入の痕跡から辿ることができるのではと考察しております。。 多田氏系としては、気仙地方から遠野へ入ったとされる細越氏、さらに達曽部氏等、猿ヶ石川流域に定着が伝えられますが、駒木氏は細越氏から分流した一族との考察もあり、今後この説を調べて参りたいと考えおります。 鎌倉初期、遠野へ入部した代官宇夫方氏、当初は駒木に仮館を築いてその統治の中心としていたと伝えられておりますが、後に宇夫方氏は綾織方面へ移動、駒木には領主権を持つ阿曽沼氏が入り、横田城が本格的に築かれ稼動するまで駒木の地に居たのではないのか、阿曾沼氏が横田城(護摩堂館)に移った際、駒木地域の空白化を防ぐため、気仙から遠野入りをしていた多田氏系の細越氏の誰かを駒木に招聘し、在名にての駒木か馬産たる技術を有した一族がために駒木の名が付けられたか、いずれ駒木氏が誕生、駒木館も同時に築館したものと考えます。 ただし、駒木氏(前駒木氏)の歴代、事績はおろかほとんど伝承されていない事実があることから、何かしらの争乱、内訌等で歴史の闇へ消し去られた何かがあったものと推測いたします。 |
| 舘熟知度 V | 舘規模 B |
遺溝保存状況 B | 難易度 V | その他 |
| 駒木舘 |

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| 主郭部背部の土塁 | 背部の空掘(林道を挟んで反対側の東へ下る) |
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| 背部、北側へ下る最深部二重堀 | 背部の空掘 |
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| 北側の空掘跡(背部から下る) | 左画像の空掘流部分 |
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| 上記画像を西側から撮影 | 左画像の空掘のはじまり部分 |
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| 主郭部下の内側の空掘 | 北西側に展開する帯郭5段 |
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| 北西側の空掘跡(4重のうちのひとつ) | 西へ展開の帯郭 |
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| 中央付近の帯郭 | 中央下部の竪堀 |
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| 中央下部(西)の形状 | 主郭西側の帯郭(突端) |
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| 主郭平場 | 主郭東端の空掘跡 |
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| 主郭背部、最深部二重堀 | 背部空堀のはじまり(内側) |
