八幡舘主・菊池姓駒木氏
  舘(城)名 八幡舘(はちまんたて) 別名 八幡沢舘・八幡座舘
  所在地 岩手県遠野市松崎町駒木 海上 15地割25、88
  現存遺溝 帯郭 土塁  馬場跡   城規模 東西100m 南北150m(山城)
関連諸氏・人物 駒木豊前広道 (こまぎぶぜんひろみち)本姓菊池氏・駒木隼人広三
築年代・使用年代 天正初年(戦国期)〜寛永年間
  その他 伝平安時代、井手氏の築舘ともいわれる(源義家家臣)
                          背  景
 松崎町駒木、海上集落の東南端に位置し、小烏瀬川を挟んで東南側が土淵町、北側が松崎町で、その境である小烏瀬川に架かる福泉寺橋の松崎側、県道沿いの東の山野で、標高319m比高39m、東西約100m南北約150mである。
 
 形状は、東南側が最高地点で南北15m、東西約30mほどの平場で舘の主郭と思われ東南方面を真下に流れる小烏瀬川へ落ち込む急傾斜地である。頂部には現在、社が鎮座しているが、舘神かは不明である。
 西側は県道に面し、道路沿いは北へ行くにしたがって山はなだらかに傾斜しているが、舘内部は比較的傾斜の差がなくなだらかである。
 北側は隣接する八幡神社の鎮座する山野と沢により立ち切られており、舘が機能していた当時は堀として活用していたと推測され、この地点より舘跡内へ通じる道があって南方向につづいている。
 
 内部へ入ると東側は20度ほどの傾斜がつづき登りきると帯郭があって、南側は一段高い平場が西から東、そして南方面へ孤を描いてつづく帯郭2段があり、その長さ50m以上はあると思われ5〜6m、高さ1mである。
 東側には段が設けられており、北から南へ向かって30m以上連続してつづいている。下部は傾斜地である。
 
 南端から西方向は40mほど傾斜しており、舘主郭下の平場へつづいており、この平場は2段となって西側に下っている。段の上部は広く、以前は馬場があったのではないかと推測され、郷土史関連資料に馬場跡と掲載されているので、この場所と思われますが少し狭い感じも受け、隣接の山野にあった可能性もある。この平場から南、東南方向は主郭へ向かって斜面が上っており、途中2段の帯郭が確認できる。
 全体的に北、東、南から中央部へ斜面が下り、西方面が開いた盆上の形である。
 
                     菊池姓駒木氏
 天正年間、阿曽沼氏家臣、八幡舘主、菊池豊前広道がこの舘に居り、駒木地方を領したということで駒木氏を名乗り、阿曽沼広長が遠野を追われ、失地回復戦二度目の赤羽根峠の戦いに駒木豊前の子、駒木隼人が若干17歳であったが、遠野方として出陣し、後に南部利直より駒木地方を拝領、五百石を食んだと伝えられております。
 私は駒木に生まれ育ち、現在も暮らす人間ですので、俄然、この駒木氏に興味があり、また旧姓を菊池と伝えられる駒木氏、我姓菊池とも関連がありそうで、阿曽沼家中、最も調べてみたい一族であります。


 阿曽沼氏没落後の駒木氏

 阿曽沼広長が気仙落ちし、遠野領主を追われると、遠野をほぼ完全に手中に収めた南部利直に駒木豊前は、駒木、安居台(松崎町駒木、附馬牛町安居台地区)の旧領、後にいう五百石を拝領、八幡舘に居て当地方を領有しました。 
 豊前は寛永年中に死去と伝えられ、間もなく八戸から遠野南部氏が遠野入部となるので、豊前の跡を継いだ駒木隼人広三は、領地替えとなって遠野を去り、南部藩士として代々命脈を伝える。
 また駒木隼人広三には弟が居て、駒木六兵衛広安、この広安の系統もまた南部家に仕えた。

 駒木豊前広道   一味仕利直公五百石 (菊池豊前)
 駒木隼人広三   豊前子三百五十石
 駒木六兵衛広安  豊前弟 別家
 

 本姓菊池、阿曽沼家臣駒木氏は、天正年間に菊池豊前広道が八幡館に居たといわれている
 その興りは不明ながら、遠野には天正年間と伝えられる菊池一族の流入が伝えられ、その一派であろうと推察されます。

 また、当時の駒木という土地、禄高は400石前後といわれ、そのすべての地域を領有する駒木氏は比較的大きな勢力を有していた一族であったとも推測されますし、遠野盟主、阿曾沼氏に駒木地区を任されていたとみるならば、ある程度の実力を兼ね備えていたものと思われます。
 
 慶長5年の遠野の政変では、謀反側の鱒沢氏に与力したと伝えられ、その功により太守、南部利直により、あらためて駒木地域の旧領を安堵されたといわれます。
 

 駒木隼人広三

 

 駒木隼人は、豊前の嫡男と伝えられ、遠野の政変での慶長6年赤羽根峠の戦いでは、若干17歳で上野広吉率いる遠野勢に従軍し、盲目の軍師と語られますが、17歳で軍師、俄かに信じがたいことでもありますが、駒木氏が存続し、後に盛岡南部藩士として、命脈を伝えていることをみますと、何かしらの功があったものと思われます。(駒木隼人広三の系譜については下記参照のこと)

 

 駒木氏居舘の八幡館の北東の山野には、戦国期まで使われただろうと推測される駒木館が存在しております。
 駒木館主は駒木某と語られますが、歴代は不詳、駒木氏に関する事績も皆無でもあります。
 
 駒木館は戦国的で戦闘的館跡と
推察しておりますが、この駒木館と八幡館との関連は今の所不明でもあります。
 かつては駒木館西側の麓、中野と呼ばれた地にひとつの集落が存在したと伝承されてますが、八幡館直下の界隈に集落が存在したという伝承は伝えられていない。
 また、海上集落や駒木の各集落は北側1キロ以上に点在しており、しかも小烏瀬側に阻まれた南端に館跡は残されている。

 これは何を意味するものなのか、八幡館は駒木のみならず対岸の土淵の似田貝方面もその領域だったのではとも思われることでもあり、さらなる考察が必要と思われます。



明治元年支配帳に百二十石六斗四升七合駒木縫右衞門家がある。同家は本姓を菊池と

伝え、遠野阿曽沼三郎広郷旧臣駒木豊前広道を祖とする家である。はじめ、閉伊郡駒

木村(遠野市)を領し、その在名により氏とした。『参考諸家系図』巻四十三「駒木

系図」によれば、豊前広道は、慶長五年に主家阿曽沼氏が没落の時南部家へ仕え、旧

領によって駒木村に五百石を食邑。寛永中死去したと云い、奥南落穂集は「鱒沢左馬

助広勝は主家阿曽沼氏に叛むく、張本人にて、主君を追い出す、この時広道は鱒沢に

一味同心し、利直より五百石を宛行われた」と伝えている。その後、慶長五年に嫡子

次郎三郎(のち隼人)広三は、部屋住で遠野赤羽合戦に従軍、寛永中に父の家督を相

続。『参考諸家系図』には同四年和賀郡沢内村に百石、稗貫郡湯本村(花巻市)、東

中島村(石鳥谷町)に新田三十石六斗一升、その他二百二十石、都合三百五十石を食

邑したと見える。一方、慶安中にその子次郎三郎広秋が書上た父の所領は(祖父の)

跡目四百五十石を下され馬廻を勤め云々とあり(『南部氏諸士由緒』)、数字が合致

しない。寛永十二年死去した。広三に弟六兵衛某があり、大迫達曽部蔵奉行を勤め、

その子嘉兵衛広雪の時に士班に列した。広三の跡は寛永十三年に嫡子宇三郎(のち次

郎三郎)広秋が相続。幼少により旧地の内二百石を食邑した。のち五十石の加増があ

り、慶安五年支配帳には二百五十石と見える。寛文元年死去した。その跡を、嫡子次

郎右衛門(のち次郎兵衛、次郎三郎)広剛が相続した。幼少により前禄を収められ、

現米五十石を食禄した。のち天和元年に三十石を加増、現米を地方に色替して地方八

十石となり、更に宝永二年切添畑返新田三十二石六斗三升三合を加増、百十二石六斗

七升七合となった。宝永二年七月十日畑返し切添改出高本知に加被下候(三十九人の

内)覚に「一、百拾駄弐石六斗七升七合、内三拾弐石六斗三升三合畑返し 駒木二郎

三郎」が散見する(『身帯分地家督并御加増被召出類』)。上田通代官を勤め、享保

四年死去した。その跡を岩泉八十右衛門相邑の二男藤蔵(のち次郎太夫)広頭が養嗣

子となり相続した。三閉伊鉄山奉行を勤め、元文四年死去した。その跡を嫡子金之助

(のち宝暦二年に次郎太夫と改む)広棟(広積とも)が相続?敷奉行表給仕舞台奉

行兼帯、金森兵部少輔頼錦構番、徒頭、目付を勤め、明和四年死去した。その跡を嫡

子藤次郎(のち安永四年に治左衛門と改む)が相続、座敷奉行表給仕舞台奉行兼帯を

勤め、天明四年死去した。その跡を同年七月に嫡子市太郎(のち同年十二月に市太と、

更に享和二年に縫右衛門と改む)が相続した。文政十三年寛保新田の改有高七石余を

加増、百二十石六斗四升七合となった。天保九年死去した。その跡を嫡子道二郎が相

続した。部屋住の時、天保七年に、藩命により江戸へ出て書を学んだ。同十一年蟄居

隠居して遊蝶と号した。その跡を嫡子庄二郎(のち縫右衛門、勝二郎)広仁が相続し

た。明治十一年の士族明細帳によれば、上田与力小路十六番屋敷に住居していた。そ

の跡を広剛が相続。



駒木豊前の二男駒木六郎兵衛広安を祖とする駒木家。広安は藩主重直の治世に無足で

大迫達曽部蔵奉行を勤め、役料米十駄を給せられた。その子嘉兵衛(のち六兵衛)広

雪は父死去の時、幼少であったが、父の勤功により父の役料を本高にして召出された。

のち父が勤中、正保四年の罪が発覚、慶安四年切腹した。その子嘉兵衛是安は重直の

治世に更に召出され、十駄(高二十石)を食禄した。元禄末又は宝永初年に死去した。

その跡を嫡子嘉兵衛(のち三郎右衛門)広寧が相続。その跡を亀ヶ森市郎兵衛影房の

弟三郎右衛門(のち安太夫)が養嗣子となり相続した。歩行火の廻、別段廻、東根山

奉)行、貞林院(藩主利幹側室、利雄生母、橋本清兵衛清吉女)鍵番を勤めて明和二

年隠居、同年死去した。その跡を嫡子留之助(のち五左衛門、又左衛門)が相続、寛

政四年死去した。その跡を嫡子周蔵が相続、同六年死去した。その跡を亀ヶ森林左衛

門の弟要助(のち五左衛門)が末期養子となり相続、文政元年死去した。その跡を嫡

子虎之助(のち安右衛門)が相続した。天保十一年十二石を扶持方に色替、四駄二人

扶持(高二十石)となった。慶応元年物価高騰により安定するまで本高同様の手当米

十石を給せられ、手当米ともで三駄四人扶持(高三十石)の実収となった。その跡を

安政二年に嫡子又蔵が相続、その跡を嫡子忠治広隆が相続した。明治四年の士族明細

帳によれば、明治二年に相続とあり、同十一年の士族支配帳には明治七年相続と見え

る。推して前者が正しいと見たい。その跡を広治が相続して家名は絶え、歴代の墓地は

盛岡市北山の聖寿寺にある



 南部藩士、駒木氏に関しては「近世こもんじょ館」工藤利悦先生より、ご寄稿いただきました。 原文を一部割愛し掲載。

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舘熟知度 V 舘規模 B
遺溝保存状況 B 難易度 U   その他
八幡館
中央部分、平場(伝馬場跡) 同左の下部
上記画像に同じ 北東側上部の土塁
北東側の帯郭 同左・・・2段となっている
東側斜面の帯郭 主郭下、中央部の帯郭
主郭下の段差 同左
主郭平場から北方向、中央は馬場跡か? 主郭に建つ稲荷社
北側の空掘跡。上部の北東側は帯郭となっている 中央下部、西側の虎口跡
西方面。松崎及び光興寺方向(横田城)を望む 南方向、小烏瀬川対岸土淵方面(足洗川、似田貝)